2025年8月11日、インド最高裁が命令を出した。「デリー首都圏にいる野良犬、推定100万頭を8週間以内にすべて収容施設に移送せよ」。
翌日、市民が街に出た。
日本に来て8年、インド出身の私(シワニ)が、この判決と、それを変えた市民の動きについてお話しします。
発端は、1人の6歳女児の死
2025年6月30日、デリーに住む6歳の女の子チャビ・シャルマが、叔母の家に向かう途中、野良犬に複数箇所を噛まれた。狂犬病に感染したその犬による咬傷は深く、チャビは7月25日に亡くなった。
この報道を受けて、最高裁は職権で野良犬問題を審理対象とした。そして8月11日、2人の裁判官による命令が出た。デリー首都圏を「野良犬ゼロ」にする。収容した犬は路上に返してはならない、というものだった。
子どもを守りたいという気持ちは、誰にも否定できない。でも、この命令はすぐに別の怒りを呼んだ。
なぜインドにこんなに野良犬がいるのか
インド全国の野良犬の数は、推定約6200万頭。デリー首都圏だけで約100万頭いると言われている。
2024年の犬咬傷件数は全国で約370万件。2022年からの2年間で約70%増加している。狂犬病による死者数は、政府公式データでは年54人とされているが、WHOの推計では年間1万8000〜2万人が亡くなっているとされており、医療へのアクセス格差が数字の乖離をつくっている。
これだけ多い背景には、急速な都市化とゴミ処理の問題、そして「動物を殺すことへの抵抗」というインド社会の価値観がある。ヒンドゥー教的な生命観の中で、動物への慈悲は深く根づいている。だからこそ、この問題は単純に「危ないから排除」では片付かない。
インドには、野良犬の「殺処分禁止法」がある
最高裁の命令が大きな波紋を呼んだのには、法律上の理由もある。
インドには2023年に制定されたABC規則(Animal Birth Control Rules 2023)がある。この規則は野良犬の殺処分を実質的に禁じており、認められるのは「捕獲→不妊去勢手術→狂犬病ワクチン接種→元の場所への返還」のみだ。
8月11日の命令は、この法律と真っ向から衝突していた。動物愛護団体や法律家は「命令自体が違法だ」と訴えた。収容施設に永久移送するということは、6200万頭を収容できる施設など存在しない以上、事実上の死刑宣告に等しいと。
市民が動いた
命令の翌日、8月12日。ニューデリーのインド門の前に、40〜50人の活動家が集まった。警察は24人以上を拘束した。ムンバイでは大雨の中、100人以上が抗議集会を開いた。
オンライン署名は数日で数十万件を超えた。
PETA Indiaは最高裁に正式な申立書を提出した。「犬を施設に閉じ込めることに反対する。科学的な不妊去勢プログラムの徹底執行を求める」という内容だった。
動物を守りたいという声が、国を動かした。
11日後、命令が覆った
抗議が全国規模に広がると、インド最高裁長官がこのケースをより大きな3人の裁判官によるベンチに差し戻した。
2025年8月22日、修正命令が出た。
「収容した犬は、ワクチン接種と不妊去勢手術を行った後、元の地域に返還すること。狂犬病への感染が確認された犬、または明らかに攻撃的な犬のみ収容継続とする」
また、犬に餌を与えるための指定場所を設けることも命じました。
8月11日の命令から、わずか11日後のことでした。
市民の抗議や動物愛護団体からの申し立てが相次ぐ中で、最高裁は8月11日の命令を大きく修正したのです。
それでも、問題は終わっていない
修正命令の後も、最高裁はこの問題について動き続けました。
2025年11月、最高裁は全国の州・連邦直轄領に対し、学校、病院、スポーツ施設、バス停やバス車庫、鉄道駅などの特定の公共施設から野良犬を排除し、フェンスや壁、門などを設けて再び侵入できないようにすることを求めました。
また、これらの場所から捕獲した犬については、不妊去勢やワクチン接種などを行ったうえで、捕獲した場所には戻さず、指定されたシェルターに移すよう命じました。
つまり、8月22日の「原則として元の地域に返還」という方針を維持しながらも、公共施設については再び厳しい対応が取られることになったのです。
チャビさんのような事故を防ぐこと。
そして、非常に多くいるとされる野良犬と人間がどう共存するのか。
インドはまだ答えを探し続けています。
今回の一連の動きが示したのは、司法の判断が出た後も、市民や団体が声を上げることで、その判断について社会的な議論が広がるということです。
私はインド人として、そのことを誇りに思う部分があります。
同時に、根本にある問題――医療へのアクセス、不妊去勢手術の普及、狂犬病対策、そしてゴミ処理のインフラ――は、まだ解決していないと正直に思っています。
「犬を守るのに、家では肉を食べている」という批判
抗議運動が盛り上がる中、別の批判も起きました。
「犬の命は大切にするのに、なぜ他の動物は食べるのか」
ジャンヴィ・カプール、ヴァルン・ダワン、ラヴィーナ・タンドンなど、多くの有名人が犬をめぐる問題について声を上げました。
その一方で、SNS上では、動物愛護を訴える人々に対して「普段は肉を食べているのではないか」という批判も見られました。
この議論は、単なる野良犬問題を超えて、「私たちはどの動物の命に共感するのか」という、より大きな倫理の問題にもつながっています。
2025年9月には、モディ首相の動物愛護をめぐる発言について、一部メディアが「インドには動物愛護家が多いが、その中には牛を動物とは考えていない人もいる」という趣旨だったと報じました。
ただし、この発言については一次資料で発言全文を確認できていないため、ここでは報道された趣旨として紹介します。
インドでは、動物によって宗教的・文化的な位置づけが大きく異なります。
牛はヒンドゥー教で特に神聖視され、犬にも宗教や神話の中でさまざまなつながりがあります。一方、鶏や山羊などは食用として広く受け入れられています。
この違いは、「私たちはどの動物の命に共感するのか」という、より大きな倫理の問題も浮かび上がらせます。
私自身は、ヴィーガンという選択を支持しています。
犬だけでなく、私たちが食べている動物についても、その命や苦痛について考えていくことには意味があると思います。
今回の議論をきっかけに、犬を守ることだけではなく、すべての動物に対して私たちはどう向き合うのかを考える人が増えればいいと思っています。
ただ、それぞれの人がどの段階から動物への配慮を始めるかは違います。
だからこそ、犬を守ろうとする人の行動を「他の動物を食べているから偽善だ」と切り捨てるのではなく、そこからさらに多くの動物の命について考えるきっかけにできればいいと思います。
よくある質問(FAQ)
Q. インドではなぜ野良犬を自由に移動させたり、殺処分したりできないのですか?
A. 2023年のAnimal Birth Control Rules(動物出生管理規則)では、野良犬について、捕獲、不妊去勢、狂犬病ワクチン接種を行い、原則として元の地域に返還する方法が定められています。すべての殺処分を一律に禁止する法律というわけではなく、治療不能な病気や致命的な負傷など、一定の条件では安楽死が認められています。
Q. インドの野良犬問題はいつから深刻なのですか?
A. 野良犬問題にはさまざまな背景がありますが、近年の犬による咬傷報告は増加しています。2022年の約218万件から2024年には約371万件となり、約70%増加しました。都市化やゴミ処理などの問題も、野良犬が人間の生活圏に集まる要因として指摘されています。
Q. 日本では野良犬問題はどう扱われていますか?
A. 日本では、狂犬病予防法や動物の愛護及び管理に関する法律などのもと、自治体が犬を収容し、飼い主への返還や譲渡などを進めています。それでも引き取り手がなく、譲渡も困難な場合には殺処分が行われてきました。ただし、近年は殺処分数が大幅に減少しており、民間の保護活動や譲渡の取り組みも広がっています。インドと日本では、法律の仕組みだけでなく、都市環境、インフラ、狂犬病対策、動物に対する文化的な考え方も大きく異なります。だからこそ、どちらか一方のやり方をそのまま当てはめるのではなく、人間の安全と動物の命をどう両立させるのかを考える必要があるのだと思います。
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この記事はシワニが執筆しました。